映画鑑賞録。

最近見た映画を忘れないために。

葛城事件。

2016年。

 

評価-6/10。

 

社会派度-☆☆☆☆

胸糞悪さ度-☆☆☆

同情度-☆☆☆

 

 

無差別殺傷事件を起こした次男に対して、死刑判決が出され、死刑反対派である女性が次男と結婚することで、この事件に関わることになる。女性は、次男と会話できる立場になり、また父親とも会話するようになる。なので、観客はこの女性を通して、現在の次男父親、そして父親の環境を知ることになる。

 

合間に、事件を起こすまでの家族の時間が挿入されるので、ちゃんと見ていないと、この場面は、現在なのか過去なのか分からない、ということになりかねない。ややこしいと言えばややこしかった。

 

父親は、「家族を大事にしたい」ナルシストとして描かれる。なので、自分の思い通りに動かないと暴力をふるったり人格攻撃をしたりするし、それに屈服して彼の思い通りに動いたら、その後すぐに笑顔で会話を続けようとする。

 

長男は、父親の思い通りの人間になることを了承して生きていて、子どもの時から成績が良い。そのため、父親に愛されている。

次男は、父親に支配されることに疲れ果てていて、いわゆる「引きこもり状態」になっていて、父親から疎まれている。

母親は、父親からの暴力から逃れられず卑屈になっていて思考能力も低下している。一度、父親から逃げて生活を始めるが、結局連れ戻される。

 

長男はリストラにあうが、それは父親が望む姿ではないと分かっているので、誰にも相談できずに自殺してしまう。

 

その後に、次男が駅で無差別殺傷事件を起こす、という流れ。

 

 

自分の理想の子どもになるように育てようとする女性は「教育ママ」として描かれることが多いけど、それの男性版という感じ。

 

どちらにしても「理想の家族」を欲しがっているけど、家族を「人格をもつ人間」として見ていない。

 

映画では終盤に家に住み始めた頃の「普通の状態」だった様子が回想として描かれるけど、それが悲劇性を高めている。というか、この回想がなければ「この父親、クソ過ぎる」で終わりそう。

 

次男は、家庭の中ではボソボソとしか話せなかったのが、刑務所では感情むき出しで叫ぶようになっている。それだけ、父親の抑圧の大きさが分かる。(ただ、演技的には舞台のようで、映画としてはチョット大げさだなとも思った。もうちょっと言葉が聞き取りやすかったら良かった。)

 

 

父親役の三浦友和さんの演技は、評判通り秀逸だった。ただただ胸くそ悪さを感じてて、「同情できない演技」で映画を支えることができるのは、そこに並外れた演技力があるからだと思った。(観ている時はヤなヤツだなとしか思わせない)

 

母親役の南果歩さんの演技もよかった。夫の身勝手さや暴力に怯えている「弱い妻」というのではなく、夫の狂気が伝染して「壊れた妻」を演じていた。

 

次男と結婚する女性を田中麗奈が演じていたけど、何考えているか分からないキャラを上手く演じていたと思う。セリフの量も多かったのに、感情を乗せずにやり切ったのはスゴイと思った。

 

 

終盤のシーンで、次男と結婚した女性に、父親が「次男の家族に慣れるのなら、自分の家族になってくれてもいいじゃないか」みたいなコト言ってレイプしようとするのだが、それが彼の全てをあらわしているなと思った。自分が渇望するものは力尽くで手に入れる、その時相手の気持ちを慮らない(というか、考えてもいない)。結局拒絶されてしまうのだが、その後に残された父親は、「自分の行いを反省している」のか、それとも「手に入れたいものも手に入れられなくなった自分に老いを感じている」のか。。。

 

 

ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ。

1990年。イギリス映画。

 

評価-10/10。

 

悲劇度ー☆☆☆

シェークスピア度ー☆☆☆☆☆

世にも奇妙な物語度ー☆☆☆☆

大好きだー‼度ー☆☆☆☆☆☆

 

私のドストライクな映画です。設定も、役者も、音楽も、衣装も、文字も。

 

ハムレット』を知っているという前提で作られているので、何も知らないままでは全く理解できない映画とも言えます。

 

ギルデンスターンとローゼンクランツは、ハムレットの友人です。ハムレットの叔父である王は、ハムレットうつ状態を見てどうにかしようと、ギルデンスターンとローゼンクランツを呼び寄せるわけです。

 

二人はハムレットの気晴らしをするというのが表向きの理由です。というのは、ハムレットの叔父クローディアスは、自分の兄でもありハムレットの父でもある先王を殺して王位を奪い、ハムレットの母である王妃も自分の妻にしてしまっています。ハムレットは、その事実を知っていて、自分を弾劾するような行動に出ないか心配なのです。

 

なので、王クローディアスは、ギルデンスターンとローゼンクランツをハムレットの話し相手にして、ハムレットの本当の目的を聞き出してもらおうと画策しています。

 

ハムレットは、もともと王になることに消極的ですが、王子として叔父の不正に何もしないままでいいか悩んでいます。兄王を殺して王位を手に入れている上に、(ハムレットたちの倫理では)兄の妻だった女性を自分の妻にするということは近親相姦に値することです。なので、「To be or not to be, that is the question」となるわけです。

 

シェークスピアの戯曲『ハムレット』の中では、ローゼンクランツとギルデンスターンは二人一緒に同じシーンに登場します。登場するときは、いつも二人一緒です。言っているセリフもどちらが言ってもいいような内容です。なので、本当に「どちらがどちらでもいい」端役です。

 

一応、映画ではローゼンクランツはゲイリー・オールドマンが、ギルデンスターンはティム・ロスが演じていますが、キャラとしての二人は自分がどちらなのか理解していないかもしれません。

 

ということで、映画へ。(好きなので、文章も長くなります。)

 

 

 

まず、二人が馬に乗って旅をしているシーンから始まります。

 

ふとしたことで、コインを落としてしまい、それに気が付いたローゼンクランツがそのコインを拾います。旅にも飽きているのか、コインを投げて裏表を出して遊びます。

 

そして、何回投げても表しか出ないことに気づきます。→ここで、「この世界」は通常の世界でないことを気づかされます。観客は、「彼らは本の中の住人であり、自分たちの世界と同質でないのだ。」と思うはずです。(ちなみに、彼ら二人は普通の世界に生きていると思っている。)

 

ギルデンスターンは、表ばかり出る原因を考察しますが、その中で「今、自然ではない力の中に自分たちは捕らえられている」(まさにその通り)という推論をしますが、ローゼンクランツが真面目に取り上げないので、うやむやに。

 

話の流れで、自分の一番古い記憶の話になります。王からの召集を伝える使者が思い出されます。ここで、彼らは、今王宮に向かう途中であることが分かります。さらに、使者に起こされた時に、彼らが生まれた、とも言えます。(なにせ、作品のキャラなので)

 

 

王宮に向かう途中に旅役者に出会います。怪しさ満点です。

ここで、ローゼンクランツが自己紹介をしますが、「僕の名前はギルデンスターン 彼はローゼンクランツ」となってしまいます。ギルデンスターンが怪訝な顔をして、ローゼンクランツが「彼の名前はギルデンスターン 僕はローゼンクランツ」と改めます。このやり取りは、以降にもたびたび出てきます。

 

旅役者たちは、何ができるのかと問われ、殺人や亡霊、戦闘や悲愴な恋人などハムレットを思わせるイメージを演じます。また、このときに台本とみられる紙が散逸しますが、紙が散逸するシーンも以降たびたび出てきます。

 

ローゼンクランツとギルデンスターンは、自分たちも舞台に参加できるのかと問うと、旅役者は、「ある者には芝居する場、他には客になる場。これはコインの裏表、または同じ面だ。」と。←映画の出だしのコイン投げの珍事とつながります。

 

このシーンでは、ローゼンクランツとギルデンスターン=芝居を見ている客(裏)であり、旅役者=芝居をしている役者(表)、ですが、

映画全体をみると、私たち観客=芝居を見ている客(裏)であり、

旅役者だけでなくローゼンクランツとギルデンスターン=芝居をしている役者・キャラ(表)、になるというわけです。

ローゼンクランツとギルデンスターンは、自分たちが(表)であり(裏)になることはない、ということに気が付いてないわけです。

 

旅役者とコインの賭けをしますが、1回目は表が出て旅役者(表が出ると分かっていたという感じ)の勝ち、2回目は何故か裏が出て不思議がる二人ですが、不思議だなと思っているうちに場面が王宮内に急転します。←舞台ってそういうものですよね。

 

急なことに戸惑う二人ですが、王が近づいてくるので、とりあえず頭を下げます。

 

王も二人がどちらか分からずに話している感じ。

ハムレットのことを探ってくれ、と頼みます。傍からは親心として。

 

二人も臣下として、王の命令に従うと約束するしかありません。

 

王とその連れが部屋を去っていくので、二人も部屋から出ようとしますが、出たところで、再び同じ部屋に戻ってきてしまいます。←舞台って、場面が決まっていて、それ以外の場所は与えられていないですよね。

 

再び部屋を出てみると、今度はきちんと出ることができます。進んだ先は、室内テニスコートみたいなところ。

遊び道具を用意する中で、ローゼンクランツが重たいものと軽いものが同時に落ちること(万有引力)に気が付き、ギルデンスターンにも見せようとしますがうまくいきません。←ハムレットは1600年ごろで、ニュートンが1642年生まれなので、登場人物が気が付くハズがない、というか気がついてはいけないのです。

物理法則に気が付きそうで気が付かないというシーンはたびたび出てきます。

 

何だかんだで、言葉遊びが始まります。

最終的にギルデンスターンは、自然にローゼンクランツを呼ぶことができますが、ローゼンクランツの方はうまくいかずに終わります。

 

ハムレットを見かけて、彼が変容したことに気が付く二人は、その原因を推理しようとします。現状の人間関係をおさらいすることしかできません。

 

 

ついにハムレットと対面することになります。ハムレットも二人がローゼンクラン・ギルデンスターンのどちらか判別できていません。(友人なのに)

 

ハムレットは狂気にとらわれたように振舞いながら、二人が自分に会いに来た王クローディアスのスパイかどうか探っています。二人は、ハムレットから何も引き出すことが出来ませんでした。

 

 

次に、旅の途中で会った旅役者が王宮に来ていることを知ります。ハムレットが熱心に劇を見ているのが分かります。ハムレットの要望で、旅役者はしばらく王宮に居続けることに。

 

旅役者と話すことで、ハムレットとオフィーリアの関係を二人は教えられる。

 

 

旅役者たちは、王宮の下男下女らに無言劇を見せることになるが、その内容が『ハムレット』そのもの。これから王宮で起きることを舞台にしている。ローゼンクランツとギルデンスターンに起きることも。←といっても、二人や下男下女らにとってはそれはまだ、「何かのお話」に過ぎないけど。

 

トーリー的には、オフィーリアはハムレットとの恋に悩んで入水自殺をするし、王クローディアスとハムレットは相討ちみたいになるし、王妃も巻き添えで死んでしまう。悲劇の伝統にのっとって、主要人物はみんな死んでしまう。

 

劇が終わったら、またハムレットたちのターンに。

 

ハムレットが「To be or not to be」と言うシーンがあるけど、それを声に出さずに口を動かすだけにしたのは、スゴイ演出だと思った。

 

 

ローゼンクランツが、降ってきた紙を飛行機にして放ると、ハムレットとオフィーリアがいるところを通って、王らがいる部屋を通って、自分の場所に戻ってくるというのも面白い。

 

 

ローゼンクランツは、戻ってきた紙飛行機をさらに工夫して、20世紀風の飛行機を作って飛ばそうとするけど、ギルデンスターンに壊されてしまう。

←ローゼンクランツは、記憶がないだけで、実は現代人なのか?

 

 

次に、旅役者たちが舞台練習をしているところに。ハムレットたちはハムレットたちで、話を進めている。舞台役者たちは、クローディアスが兄王を殺すところを舞台ストーリーとして練習している。

 

 

役者たちがクローディアスがしてきたことを舞台で演じているというところを見て、王クローディアスは挙動不審に。ハムレットとクローディアスの決裂は決定的なものに。

 

これだけあっても、ローゼンクランツとギルデンスターンは現状に気が付かず。←あくまで舞台はただの舞台だと思っているので。ハムレットの父をクローディアスが殺していることを知らない。

 

暗転。

 

二人は気が付くと船に乗っていた。

 

この映画は場面展開が急だけど、ローゼンクランツとギルデンスターン二人に自覚がないから。通常なら、場面展開があったら、移動してきたところを省略したことを観客も分かっているし登場人物も分かっているけど、これは二人は自分たちがストーリーの登場人物だということに自覚がないから省略に気が付いていない。だから、二人にとっても場面展開が突然起こってしまうのだ。

 

 

二人は話し合っているうちに、ハムレットをイギリスに連れていく途中であることを思い出す。王の書状も持っていて、そこにはハムレットがイギリスに着き次第ハムレットの首をはねろと書かれていた。

 

二人は、ハムレットへの友情と、臣下としての任務の間で悩む。ハムレットは王の書状をすり替える。船は海賊船に襲われ、ハムレットはその海賊船に乗って王宮へ戻る。

 

 

ローゼンクランツとギルデンスターンは、ハムレットのいないままイギリスへ行こうと決意。すり替えられた書状にはハムレットではなく二人の首を吊れと書かれていた。

 

 

ラストは、ローゼンクランツとギルデンスターンが最初に旅をしてきた道を、旅役者たちが引き返していくというシーンで終わり。

 

 

シェークスピアの「人生は舞台だ」精神を描いた映画でもあり、運命は決められているという古代ギリシア悲劇をシェークスピア作品を用いて再構成したような映画でもある。

 

 

映画の構成は入り組んでいて、ややこしいけど、それが楽しい。

好き。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

追憶。

2017年公開。日本映画。映画館にて。

 

評価-6/10。

 

サスペンス度-☆

ヒューマン度ー☆☆☆☆

ノスタルジック度ー☆☆☆

 

 

てっきり「幼少時代の大切な秘密を隠し通すため、大人になってから秘密を増やし続けていって、自分の関係や自分自身を壊していく」という映画かと思っていたので、意外にも人情ドラマで驚いた。

 

親との関係、パートナーとの関係、今の自分と過去の自分との関係、とかいろいろな関係を語っている映画だった。

 

映画の始まりは、これからドラマチックな展開になるよ、ということでカメラアングルに工夫があったけど、大画面でみたので、酔ってしまいそうだった。(年を取ってから、激しいカメラの動きに脳がついていけないだけだが。)

特にアクションのある映画ではないので、もう少し静かに始まってもよかったような。

 

 

一人の女性に拾われた3人の少年が、彼女のために犯罪を犯そうとし、実際に犯罪は起きた。その女性は少年たちの心を守るために、「すべてを忘れて、二度と会わない」と約束をさせる。

 

その25年後、一人は刑事になっていた。妻とは死産がきっかけでうまくいかなくなっていて、自分を捨てた母とはコミュニケーションを取りたくなくても切り捨てることもできていない。

一人は、経営が上手くいっていない会社の社長。結婚して婿養子になって、跡を継いだ形。金策に走る。

最後の一人は、経営が上手くいっている会社の社長。妻は妊娠中。会社の従業員ともいい関係。

 

 

ところで、少年たちを養っていた女性は、逮捕されたのか、それとも「なかったこと」にしていたのか、映画の中では理解できなかった。(ストーリーに深く関係しないけど、「二度と会わない」約束の重さが、変わってしまう気がしたので。)

 

「二度と会わない」、「昔のことも今の事件のことも、語らない」という強い意志の理由付けが少し不満だけど、映画として情緒的だったから、まぁよし。

→刑事が語らないのは、立場上言いづらいというのは分かるけど。結局、会っていなかったのは刑事だけだし。

 

 

 

 

ところで、岡田准一くんが、他の演者に比べて、背が低いなぁとも思った。だからといって、映画の価値も、彼の演技の価値も変わりはしないが。

(「男は背が高くないと男じゃない」とばかり思っているのは「女は胸がでかくなければ女じゃない」と思っているぐらい、どーでもいいことだ。)

じゃあ、言及するなということだけど、ちょっと自分のイメージと違ったので。

 

 

 

映画全体の雰囲気は、なんとなく昭和な感じがした。

 

 

 

 

 

 

 

 

この映画を見て、考えたのは、

子ども時代の記憶が主人公の行動や人格に深く影響するけど、記憶と実際に起きたことには差異があって、その差異に気が付いていくことで、主人公は救われる(または絶望する)、みたいなストーリー。

←小学時代に京都に修学旅行に行ったのだけど、それから「金閣寺銀閣寺は隣接している」と思い込んでいたので(たぶん、続けざまに観光したから、物理的にも近いと思ったんだろう)。大人になって、再び訪れて「こんなに離れてたんだ」と驚愕した。

こういうのは「記憶」と「実際」を検証できるけど、それ以外の記憶は検証できないし、そういう風に記憶している間はそれが当人には「事実」であり続けるよなぁと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

少女

2016年公開。日本の映画。原作は湊かなえ

 

評価-6/10。

 

青春度-☆☆☆

ブラック度-☆☆☆

ほんわか度-☆

サワヤカ度-☆☆

後味度-☆☆☆

 

 

てっきり、「二人の百合風味の親友が、死への好奇心から殺人を犯して、さらに閉鎖性を深める二人が純度を増しながら天使のように滅んでいく」というストーリーだと思っていたので、内容が全然違っていて、ビックリした。

 

映画の内容としては、十代の純粋さと残酷さと無知・大人の濁りと卑劣さと許しが対比されていた感じだった。

 

アンジャッシュの児嶋さんが、いい味を出していた。教師としていいコトバをどんなに連ねてもにじみ出る小物感は、彼にしか出せないかもしれない。

 

10代が主役になる映画は、演技の質が気になるものだけど、この映画に関しては違和感なく楽しめた。

 

トーリー的には、湊かなえ的な要素はふんだんに散りばめられていたけど、素直なストーリーだった。

 

 

 

ヒロインの一人は、認知症のためか家の中でも教師としてふるまう祖母がいて、家族であっても「家族」として扱えないし、扱ってもらえない。

 

もう一人のヒロインは、剣道で活躍していたが、いざという時に負けてしまい、その時から自分の評価が低くなったことを恐れている。

 

 

 

自分の在り方に関係があろうがなかろうが、誰しも人生において「受難」の時はあり、その「受難」によって自分の在り方が変わってしまうかもしれないし、変わらずに進んでいくかもしれないし、変わってしまうのは嫌だけど変わらないままでもいられないから死んでしまうかもしれない。と、思うラストだった。

 

 

 

 

 

 

 

というわけで、この映画を見て、考えたストーリー。

 

(駄文です。ストーリーにもなっていない、ただの設定。)

 

 

A子---転校生。片足を失って、義足生活。気が強い。

B男---スポーツマン。男くさい。A子が障がい者ということで下に見ている。

C男---優等生。B男とは幼馴染だが、現在は交流はない。ジェントルマン。

 

 

BとCは親同士も知り合い。B母はC母に競争心があり、家庭円満でBを優秀にすることでC母に勝とうとしている節がある。

BとCも幼いころは遊んでいたが、B母が常にBをCと比較しているから、Bは鬱陶しいと思うようになり、Cとは疎遠になる。ただ、母の教育から、自分は強くなくてはいけないと思っている。

 

Aはスポーツ推薦で違う高校に通っていたが、事故によって片足を失う。スポーツも出来なくなり、高校を転校する。通いやすいBとCのいる高校にやってきた。

 

BはAをバカにするが、Aは強気に跳ね返す。弱さを見せないAにBはイライラ。少し恋心も入っているが、自覚はない。

 

Cは誰にでも優しいし、当然障がい者高齢者にも優しい。なので、Aにも優しい。ただ、AはCを好きになれない。BはCに優しくされるAを見て、「AはCを好きになる」と思ってしまう。

 

 

Bはある時、Aが男性(大人)と笑い合っているところを見る。自分の前では見せない笑顔。「Aもあんな風に笑うんだ」とちょっとショック。

 

Aの恋人かと尋ねると、「違う、だけど大切な人。」と返答。

>>>

B「お前が片足ないから、振られたのか。」

A「違うわよ。私が私だから、彼が彼だから、(彼の恋人)さんが(彼の恋人)さんだから、私が振られたの。私に足があろうとなかろうと、私は振られたの。」

みたいな会話。

 

 

 

 

ある日、Bも事故により障害を持つことに。下に見ていた障がい者に自分もなるということを受け入れられずに、荒れる。

 

>>>

B「オレも、お前と一緒になった。」

A「一緒にしないで。私は、出来なくなったことはあるけど、弱くなったことはないから。」

みたいな会話。

 

 

浮上のきっかけもつかめないB。Cが見舞に来て、「昔、写真をよく撮ってたよね。今度、○○があるから写真を撮ってよ。好きだったんだ、Bに撮られるの。」と言われて、写真を撮りに。

 

B父が運転する車で指定の場所に。途中で父にカーナビを見て、場所を説明してと言われる。実はカーナビが苦手なB父。B母は完璧な男性(つまりC父より優秀)だと思っているB父にも、苦手なことがあったと知るB。

>>>

B父「母さんには内緒な。幻滅させてしまうから。」

B「こんな簡単なコトもできないんだ。」

B父「そりゃ、出来ないこともあるよ。人間だから当然だよ。」

B「当然なんだ。そっか、当然だよな。人間だもんな。」

みたいな会話。

 

 

その後、写真を撮ってCに感謝され、Bも写真を楽しく撮れた自分に驚く。なんとなく気持ちが軽くなるB。

 

 

ついでにAの自宅に行って、話をすることに。

 

Aも嫌々ながら、Bを気遣って、話を聞いてやることに。

 

>>>

B「お前の部屋って、こんなかわいいぬいぐるみがあるんだー。イメージとちがうわ。」

A「悪かったわね。バカにしに来たの?」

みたいな会話があり、

B「事故った時、どうした?」

A「泣いた。毎日泣いた。大好きなスポーツが出来なくなって泣いた。あんたと同じように荒れた。」

 

B「どうやって、立ち直った?」

A「わかんない。でも、家族にも支えられたし、友人にも支えられたし、(男性)さんにも支えられた。」

B「ああ、だから(男性)さんを好きになったんだ」

A「それだけでないけど、まぁそうね。」

 

A「気が付いたら、(片足がなくなったことを)もう受け入れていたの。」

みたいな会話。

 

 

BがCに依頼された写真を現像して、Cに見せにいくことに。

C母が出てきて、「写真を撮ってくれた後に、Cは事故に合って、今は入院中。面会は避けて。」と言われる。

 

 

数日後、B母から「C君、亡くなったんですって。これから、お通夜ですって」と告げられるB。

 

 

 

葬式の場でAと会うB。会場の囁き声からCは自殺だと知る二人。

 

>>>

B「どうして、自殺なんかしたんだろう。」

A「自分の事故に耐えられなかったのよ。」

B「あいつはオレみたいに、障がい者だからってバカにしてなかった。」

A「それでも、耐えられなかったのよ。」

 

B「そういえば、AはCを気に食わないといってたけど、何で。」

先日撮ったCの写真を見つつ、尋ねるB。

A(Cは、確かに障がい者に優しかった。でも、それは上位の者が下位の者に与える優しさだった。決して対等ではなかった。)と言おうとしたが、Cの写真を見て、口を閉ざす。

 

A「あなたには、写真のCが全てだし、それが真実よ。私のは、ただの印象でしかないわ。」

B「Cはオレの写真が好きだといってくれた。オレに写真を撮ってもらうのが好きだと言った。オレは確かにCに救われたんだ。」

みたいな会話。

 

 

ラストは、BとCの子ども時代か、自殺していくCが夢見た理想郷(五体満足な、AとBとCが一緒になって笑っているシーン)で終わり。

 

 

 

なんか、みんな事故に合うという都合のよさ。

 

そして、B母は嫌な女でしかなくなった。

 

(実は、C母の方がまずは仕掛ける側、というか無自覚的に優越感を味わっている。)

C母は、B母の会社の後輩。初めは先輩を慕う可愛い後輩といった感じだったが、B母がいいなと思った男性を誘惑したり、B母がいいと思った服を会社に着てきたり、仕事ではB母を頼りつつ、仕事ができないけど可愛い女性として会社の男性の間で人気を保っていたりもする。

Cに対しては、「私の可愛い息子。いい子。優秀な子。」と可愛がりつつ、「あんな人間になってはダメよ。こんな行動はしてはダメよ。あんな風に思ってはダメよ。人間、あんな風になっては人生無価値よ。」と無自覚にプレッシャーをかけるタイプ。

 

 

 

私は王である!

『私は王である!』

 

2011年の韓国映画

 

評価ー6/10

 

歴史度ー☆☆☆

コメディ度ー☆☆☆

シリアス度ー☆☆

家族度ー☆☆☆☆

大団円度ー☆☆☆

 

時代ー13世紀。即位前の世宗の話。

 

世宗は韓国一の名君として有名。ストーリーは『王子と乞食』をアレンジしたもの。

 

王の長兄は粗暴、次兄は出家していて政治に見向きもしない、三男として生まれた世宗は勉学が好きでも武芸に興味はなし。世宗は三男なので、王位継承者として育っていなかったが、長兄は王の素質なしと見られて、突然世宗が王位継承者になってしまったところからストーリーは始まる。世相は、王になりたくないと家出。

 

そして、世宗と瓜二つの奴隷とひょんなことから入れ替わる。世宗は奴隷の立場から自国を見て、王としての自覚が生じる。

 

『王子と乞食』は、乞食側は王のような誇りを持っていて、文字も覚えるし、王のようにふるまっている。でも、乞食なので、誇り高い行動をしていても変わり者としてしか見られていない。王子と入れ替わっても教養はあるので、誰にも気づかれずにいられる。この映画では、奴隷側は勉強もしないし、誇りも持っていないので、奴隷だと知っている人から王子の行動を教えてもらっている。なので、この映画は『王子と乞食』の設定をそのまま使っているわけではないけど、そのためにシリアスになりすぎず、ファンタジーにもなりすぎず、コメディー映画を貫いている。

 

世宗がどんなにピンチになっても、最終的に大団円が約束されているので安心して見ていられる。エッチなシーンもないので、家族で見ても変な雰囲気にならない。

 

世宗が情けない王子から王の自覚を持つまで、王道パターンといえば王道パターンだけど、悪役や味方役などキャラがちゃんとしているので、目が離せない。

 

エンディングのおまけシーンは、ほっこりとするし、うまく映画をまとめている。(世宗の妻が報われててよし。)

 

背徳の王宮。

『背徳の王宮』ー原題は『姦臣』

 

2015年の韓国映画

 

評価ー8/10

 

歴史度ー☆☆☆☆☆

エロさー☆☆☆☆

家族度ー☆

ナレーション度ー☆☆☆☆☆

映像度ー☆☆☆☆

 

時代ー李氏朝鮮時代の燕山君(在位1494-1506年)

歴史的背景を把握していないと、意味不明なところもあり。特に人間関係に説明がないので分かりにくいけど、把握することはできる。(顔判別できないと、誰がどんな立場で進言しているのか、とっさに理解できなくなる。)

 

エロい描写もあるけど、韓国映画っぽく上品に仕立てられている。残虐シーンや殺人シーンもあるけど、グロテスクさはあまりない(韓国映画のわりに)。

 

主人公である『姦臣』が、一族の繁栄のために暴君な王に仕えることをやめ、自身の恋情のために民衆からも憎まれている王を見離すまでの話になっている。

 

王は母のみじめな死を告げられたことで乱心し、自らの凶行のためにさらに自分を追い詰めている。自身の狂乱に絶望しているけど、止められない。というのを、役者は上手く表現している。だから、非道だけど哀れみがあって、悪役として魅力的。

 

王のために集められた美女の中にヒロインとそのライバル。

 

一人は、主人公に愛されることになるヒロイン。可憐というより、強さと信念がある。

 

もう一人は、主人公の政敵が送った美女。ヒロインと美を争うことになる。自らの地位を高めるために、王に愛されようとしている。で、ヒロインに命を救われることから、最終的にヒロイン側に。狡猾で、愛らしい。

 

ナレーションが秀逸。映画を文学にしている。

 

恋愛映画というより、愚かな男たちの滅びの唄、といったところ。でも、最後のシーンには「未来」がある。

 

面白かったし、好きだけど、家族と一緒には見れない。