映画鑑賞録。

最近見た映画を忘れないために。

コクソン。

2016年。韓国映画

 

評価-5/10。

 

 

ホラー度-☆☆

血がバシャバシャ度-☆☆☆☆

まさに「疑心」は「暗鬼」度-☆☆☆☆☆

國村隼さん、いい演技度-☆☆☆☆

 

 

エクソシスト」と「ひぐらしのなく頃に」を足して、國村隼で割ったかのような映画でした。

 

 

田舎で突然と始まる異質な事件、警察官である主人公はさまざまな噂話を聞くことによって、村で異質な存在である異邦人(國村隼)が事件を操っているのではないかと疑う。

 

そもそも、事件は立て続けに起こるが、すべてはきちんとそれぞれに実行犯がいる。ただ、それぞれが悪霊に取りつかれたかのように惨殺を行っているため、本当に「悪霊」が村にいると思うようになってくる。

 

この時代に悪霊なんてリアリティがない、と思いそうだけど、普通に村人が祈祷師を呼んでいたりするので、そういう村なんだなと思えるし、祈祷師も真面目に祈祷しているので、見てる側も「そうなのかも…」と思えてくる。

 

主人公は初めは検視した医師の見解を受け入れて「毒キノコ(幻覚と錯乱を引き起こす)」が凶行の原因になっていることに理解を示すが、主人公の娘も奇病にかかることで、理性的な判断ができなくなり、とりあえず異邦人をやっつけることで一連の事件を鎮静化させようとする。

 

異邦人は日本から来たという設定だけど、村での付き合いもなく、どうやって生活してるんだろうとか、考えてはいけない。國村隼は、いい人そうにも見えるし、極悪人のようにも見えるし、普通の弱い老人のようにも見えるし、何考えているかわかんないようにも見えて、主人公たちの「疑惑」が正当であるようにも見えるし、主人公たちがただただ「勘違い」しているようにも見える。

 

 

異質な事態が生じたときに、その原因を異質な存在に求めてしまうのが人間の性だけど、何も考えずに異質な存在を滅しても、安心は得るが、解決できるとも限らないんだよなぁ、と考えさせられる映画だった。

 

また、「疑心暗鬼」とはこのことだ!と思う映画だった。その人が犯人だと「判断」したわけではなく、その人が犯人だと「疑う」ために、その人を犯人にしてしまう。

 

ラストシーンで、キリスト教助祭が、國村隼が悪魔だと思って探しに行ったとき、國村隼が悪魔として現れる。果たして、確かに悪魔だったのか、助祭が悪魔だと思ったから悪魔に見えたのか。

 

 

ラストシーンで祈祷師が一連の事件の関係者のようにも見えるけど、それも私が「疑って」いるため、そう見えるだけなのかもしれない。。。

 

 

 

映画の中で、「毒キノコ」入りの健康食品が流通しているというニュースが流れたけど、序盤でその健康食品を村人が愛用しているシーンがさりげなく映っていたら、よかった。(←見逃しているだけかもしれないけど)

 

 

 

 

 

ミュージアム。

2016年。日本。

 

評価-2/10。

 

 

スプラッタ度-☆☆

ホラー度-☆

テーマがよくわからない度-☆☆☆

小栗旬度-☆☆☆☆☆

 

 

CMとかポスターとかを見て、『13日の金曜日』的な話かと思って見始めたら、『セブン』的な話なのかなと思い直して見続けていたら、結局自分は何を見ているのだろうという気にさせられた映画だった。

 

漫画が原作ですが、漫画は未読。

 

 

個人的な好みなので、評価ではないのですが、犯人役の人の声が受け付けなかった。←役者さん、すまん。

 

犯人のキャラ設定も中途半端な気がした。スプラッタ的なものなら、犯人は正体不明のままでもいいし、懲罰的観念に基づいて猟奇的な犯罪に走ったというなら、もっと狂気と知性の深みが欲しかった。とってつけたような悲劇的な幼少期は、すでにこういうパターンはありきたりで、つまらない。

 

犯人のキャラが薄っぺらくて知性を感じさせないから、対立している主人公の行動も単純化してしまう。直接素手で殴り合うシーンは、知性を感じさせないし、こういう犯人なら犯行現場に普通に物的証拠を残していきそうだし。(彼を操っている真の犯人がいるのかと思ってしまったし。)

 

 

漫画が原作なので、漫画の中では、切迫したシーンを登場人物の息遣いで表現しているのかもしれないけど、それを映画でやると、違和感しかなかった。漫画で行える視覚的な音効を、実際に聴覚的な音効にしてしまうと、ただただうるさかった。

 

たぶん、『カイジ』の「ザワザワ」も、あれが文字だから楽しいのであって、実際に声として演出したら、うまく演出しない限り、うるさいだけだと思うのだ。

 

 

主人公の妻も、前半ではすごく「同情してしまう」キャラだったのに、クライマックスでは「うるさい女」になってしまったのも残念。(主人公とともに叫びすぎだ。ホラー系の叫びは、10代まででいい。)

 

 

と、すごくディスってしまいましたが、良かったシーンも当然ある。

 

家を出ていった主人公の妻子を探すために、妻の友人宅を訪れる刑事たち。そこに、友人の姿はなく、友人の彼氏だという男がいる。その男は、友人の不在を告げ、また友人の職場を教える。刑事たちは友人の職場に行き、妻子の居所を問い詰める。友人は「自分の家にかくまっている」ことを白状し、刑事たちは「だったら、彼氏は初めから妻子を部屋から出てくれるように協力してくれたら良かったのに」と不満を告げると、友人は「私に彼氏はいませんけど」と。。。

→じゃあ、あの自称「彼氏」は「犯人」だったのかー!!!

という流れは、良かった。

 

 

あと、小栗旬を楽しむには十分な映画だった。というか、小栗旬のおかげで成り立っている映画だった。

 

 

 

仲間とワイワイ飲みながら楽しむには、ちょうどいい映画かもしれない。

三度目の殺人。

2017年9月9日公開。映画館にて。

 

評価-7/10。

 

 

真実度-☆

木は見れるけど森は見えない度-☆☆☆☆

切なさ度-☆☆☆

いい演技見れた度-☆☆☆☆

 

 

犯人が被害者を撲殺するシーンから始まる。この殺人事件を中心にして、ストーリーが進められていく。つまり、犯人はなぜ殺人を犯したのか、という観客に向けての謎があり、映画の中では犯人の動機をめぐって判決を軽くしようと動く弁護士と犯人、そして被害者家族の関係が描かれている。

 

犯人は、過去にも殺人を犯しているので、これが二度目の殺人になる。

 

弁護士は途中から弁護に参加することになり、判決を軽くしようと画策する。

 

犯人は、供述を二転三転させ、事件の動機をあやふやにさせようとしている。

 

弁護士は事件の動機の真実性に興味がなかったが、犯人と接見するうちに真実を追い求めるようになり、そのため、もがくことになる。

 

 

最終的に謎が明らかにされることもなく、「正義」が「悪」を倒すこともないので、カタルシスを感じることはありません。

 

さらに、ひとつひとつの事柄が分かりやすく説明されるということもないので、もやもや感が増していきます。

 

私は、「藪の中」状態が好物なので、とても面白かったですが、「はっきりとした爽快感」を求めている人には不向きな映画でした。

 

 

少し前にテレビで二時間サスペンスを見ていたら、ヒロイン役の人の演技が何ともいえなくて絶望的な気持ちになってチャンネルを変えざるを得なかったので(佇まいはキレイな人で、何もしゃべらなければ雰囲気は良かった)、役者がしっかりしている映画が見れて満足。

 

 

さらに、映像や演出もよかった。(ちょっと過剰だなと思ったところもあったけど)

役者の目の演技だけに頼らずに、手の演技もクローズアップしているのも好みだった。

 

 

役所広司の演技は圧巻だった。不気味な殺人犯を演じていて、ムカつくし、怖いし、可哀そうだし、寂しそうだし、応援しちゃいそうだし、それでも「全然わからない奴」だったし。

 

広瀬すずは、被害者の娘で、透明感があった。設定的にとんでもなくかわいそうな存在だけど「何もできない無力さ」はなく、従順性がある一方で芯のあるキャラをうまく演じていた。

 

虚言癖があるかもしれないという設定も、もっとうまく絡ませていたら、さらに「藪の中」感が増したのに、と思った。(客のもやもや感も増やしてしまうが。)

 

 

斉藤由貴もいい演技をしていた。被害者の妻で、ズルい母親を、ゾッとするような演技を、適度なバランスで演じていた。

 

 

弁護士役の福山雅治は、映画の中で唯一「変化していく人」を演じるので、難しい役どころだけど、しっかり演じてた。

 

 

 

 

 

 

犯人は、逮捕される前に、飼っていた鳥を殺して埋めるのだけど、1匹だけわざと逃がしたという。

接見時には「餌も食べることもできずに、いずれ死んでいくだろう」と冷たく言い放つが、勾留部屋で鳥の鳴き声が聞こえてきた時には明るい顔で迎え入れようとしている。

 

逃がした鳥が彼にとって何モノだったのか。善なのか悪なのか、真実なのかウソなのか。。。

パンドラの箱は開けて希望だけ残ったが、彼は自分の鳥かごを開けて希望だけを空に放ったのかもしれないなぁ。。。

 

 

 

 

 

 

 

ネタバレになりますが、

 

 

 

被害者の娘は父親から性的虐待を受けており、母親は知りつつそのままにしていた。

娘は犯人にそのことを伝えており、そのため、犯人が父親を殺したのは自分のためだと思っている。

 

 

強盗殺人ではなく、「それ相当の理由のある殺人」の方が刑が軽くなるので、娘は自身の性的虐待を公にする覚悟を持った。

 

 

犯人は犯行の否定することとなり、犯行の動機なしということを主張するために、娘の告発は邪魔になるということで、弁護側の方から娘を黙らせた。

 

 

三度目の殺人」というのは、そのまま受け取れば、犯人が犯人自身を殺した、ということになるんだろうけど。

 

 

裁判の中で娘を黙らせたことによって、「愛する父親を殺された娘」となり、「父親から虐待されていた娘」はいなかったことにされた。

 

これこそが「三度目の殺人」に感じてしまうよね。。。

 

 

「真実」が殺され「安寧」を与えられた娘は、これからどうなるんだろうね。。。

 

 

ヒメノア~ル。

2016年。

 

評価-7/10。

 

 

ヴァイオレンス度-☆☆☆☆

グロテスク度-☆☆☆

胸糞悪さ度-☆☆☆

イジメよくない度-☆☆☆☆☆

 

 

 

清掃会社に働く冴えない主人公は、同じく冴えない先輩と仲良くなる。先輩のコイバナを聞くうちに、先輩の片思いのヒロインと恋愛をするようになる。

序盤は、主人公ー先輩ーヒロインの三角関係で話が進む。

 

カフェで働くヒロインは、ストーカーに悩まされていることが分かるが、そのストーカーは主人公の高校時代の同級生だとわかる。

中盤から、主人公-ストーカー-ヒロインの三角関係が進み、ストーリーも動き出す。

 

三角関係といっても、主人公とヒロインは恋人同士でコミュニケーションが取れているが、先輩は女性にとって「恋人の横にいる人」であり、ストーカーは「不気味な存在」なだけである。

先輩もストーカーもヒロインに話しかけもせず、見ているだけで、一人でレンアイをしているだけだ。(一応、先輩はストーカーの相談相手になっているが。)

 

先輩は、「女神」を愛し、失恋して、迷走して、ちょっとキモイけど、笑える存在ではある。(終盤では、純粋性も明らかになるし。)

 

 

ストーカーの方は、高校時代に過酷なイジメを受けており、同じくイジメを受けていた男性を誘って、イジメ首謀者を殺してしまう。

 

以降、共謀者にされた男性は、この殺人事件をネタにゆすられることになる。

 

ストーカーは、ゆすりで得たお金で生活をしているようだが、ヒロインが主人公と恋愛関係を持ったことで、主人公を殺そうと持ち掛ける。

 

これ以上ゆすられて自分の人生を失いたくないと思った男性が、ストーカーを殺そうとするが、反撃されて殺されてしまう。

 

(男性には恋人がいて、恋人と一緒にストーカーを殺そうとしていた。反撃されて、恋人も襲われる。背後から襲われる女性のシーンと、主人公とヒロインの後背位のシーンが交互に映し出される演出もなかなか。ストーカーが女性を殺すときに、少なからず性的興奮を感じているとわかるし、冴えない主人公が潜在的に持っている男性としての凶暴さも映し出されている。)

 

この事件で、ストーカーはたがが外れたように、殺人を繰り返すようになる。といっても、自身の快楽のためというよりも、邪魔な存在だから、という理由で。

 

ここら辺から、ストーカーが高校時代に受けたイジメがどれほど彼の人格を痛めつけているかが描写されるようになる。

 

 

イジメによって、自尊心は奪われており、希望をなくしており、良心が殺されている。

 

なので、人を殺すことに躊躇がないし、恐れもない。

殺人がバレるのが嫌だから、探りを入れてきた相手を殺す、というよりは、説明するのが面倒だから、喚きだすのがうるさいから、話しかけられるから、殺している。

ストーカーの殺人現場にあるのは、圧倒的な虚無だ。

 

ヒロインを見ていた時は、まだ少しの未来もあったかもしれないけど、主人公と結ばれたことで未来も失った。

 

(といっても、最終的に強引にヒロインとSEXしようとする。その際に、嫌がるヒロインを殴って無抵抗な状態にしているから、彼女の人格を感じてレンアイしていたわけではないのだ。)

 

 

最後に、主人公を人質にして、車で警官から逃げるストーカーは事故って捕まるわけだが、その時の衝撃で高校時代の人格が現れる。まだイジメを受けてなかった時の人格だ。

 

そこから、主人公とストーカーが一緒にテレビゲームをしていた高校時代の一コマが流れて、映画は終わる。

 

最後のシーンで、まだ明るく幸せな未来が待つ普通の高校生だったストーカーと主人公の思い出が流れるので、哀愁を感じてしまう。

 

 

 

 

タイトルのヒメノアールとは、ヒメトカゲという猛禽類の餌にもなっている爬虫類を指しているそうだ。

 

ストーカーの被害者になった人たちにとっては、自分たちがヒメトカゲで、ストーカーが猛禽類というわけだが、一方でストーカーこそがヒメトカゲであり、彼を食っていたのがイジメ首謀者たちなわけだ。

 

 

序盤に、主人公とストーカーが話し合うシーンがあり、そこで主人公は「底辺でも幸せになれる」といい、ストーカーは「底辺に幸せはない」という。

ここでは、ストーカーがすでに殺人を犯していたということは明らかになっていないので、すごく根暗な人間だという印象を受けるだけだったが、ストーカーの過去と現在が明らかになるにつれて、彼に言う「底辺」が主人公の言う「底辺」とは全く異質のものを指していることが分かる。

 

さらに、どうあがいても幸せになれないと失望しているストーカーは、「イジメの記憶」によって、今なお殺され続けているのだ。

 

 

だからといって、ストーカーの気まぐれや必要によって起こる殺人に正当性があるわけではない。でも、だからこそ、ストーカーは可哀そうな存在だ。

 

人質にされた主人公が、ストーカーに対して、「昔のキミは、こんなんじゃなかった。優しかった」というが、事故の衝撃で退行したかのように、高校時代の彼に戻った。

 

主人公の言う「本来のキミ」に戻ったわけだが、それで彼は救われたのだろうか?

 

 

 

原作は、古田実の全六巻の漫画。映画よりも登場人物が多く、人間関係がもっと複雑そう。原作は未読。

 

 

映画に出てくる男性は、みんなイケメンとは言い難い人たちばかりで、役者のチョイスもいい。

 

ストーカー役をV6の森田剛さんがやっているが、うまく演技していた。

いわゆる「汚れ役」だけど、ジャニーズはこういう「汚れ役」を積極的に受け持った方が事務所としての評価も上がると思う。

(役者としての評価は、どれだけ多くの役をうまく演技できるかにかかっていると思うが。)

 

 

個人的に、「沙粧妙子 - 最後の事件 -」での香取慎吾さんも高評価です。

暗黒女子。

2017年。

 

評価-7/10。

 

 

サスペンス度-☆☆☆☆

中盤までミステリー度-☆☆☆☆

最終的にはホラー度ー☆☆☆☆

青春の甘酸っぱさ度ー☆☆☆

 

 

舞台はキリスト教系の女子高。女生徒の憧れの的であるヒロインの転落死から始まる。

 

ヒロインは学園の経営者の娘で、美しく聡明という、フルスペックな女の子。彼女が主催する文学サークルは特権的な位置づけにある。

 

文学サークルは、ヒロインとヒロインの親友の他に、4人の生徒と男性顧問がいる。ヒロインの親友が、3人の生徒にヒロインの死をテーマにした話を作らせて、それを読ませる「闇鍋パーティ」を開く。

 

ここで、4人の生徒それぞれがヒロインとその死に関与したであろう人を語り出す。

 

一人目のAはDを疑い、二人目のBはAを疑い、三人目のCはBを疑い、4人目のDがCを疑う。(原作では5人。)

 

それぞれがそれぞれの視点を持ち、1つの現実に複数の「ストーリー」があるという形は、芥川龍之介の『藪の中』を彷彿とさせる。個人的に好きな設定だ。

 

原作では5人なのを、4人にしたのは映画として間延びさせないためだと思われる。

 

4人はそれぞれほかの生徒一人の暗部を描き出すが、4人ともヒロインが善意の人間であることを主張する。

 

→まぁ、こういう設定の場合、「ヒロインは実は…」というパターンなのは王道で、この作品もそれに倣っている。

 

4人が語る「ヒロインの悲劇」はバラバラなので、誰か一人がウソをついているとしたら矛盾してしまうので、誰か一人は正しく3人がウソをついているか、4人全員がウソをついているか、または、ヒロインがウソをついている、ということになる。

 

 

4人のストーリーが終わると、ヒロインが転落死する前に書かれたストーリーが親友の口から語られる。

 

 

 

そのストーリーに打ちのめされる4人に対して、親友は自身のストーリーを語り、最終的にスプラッター映画になってエンディングなわけだが、ここはもう少しひねりや盛り上がりがあってもよかったような。。。

 

(結果が予想できる時間が長かったので、ドドーンと結果を見せられても、まぁそうでしょうねという感想しかない、みたいな。)

 

 

 

高校生の純粋さと邪悪さをうまく描いている映画で、なかなか面白かった。

 

ヒロインも邪悪といえば邪悪だけど、純粋な恋愛もしてるし。4人の生徒も弱いところや自分勝手なところもあるけど、懸命なところは純粋だ。

 

 

この映画のヒロインは、その純粋性や美しさが高校生特有のものとして感じているけど、結局人間すべてがそういうものだとも思う。

 

茶番劇だと思いつつ、それを演じ続けなければならない状況を作りだすのも、高校生特有というよりも、高校生のころから始まっているということなんだろうなー。

 

 

 

女子高というモノセックスの設定というだけで、密室性があって、サスペンス度が増しますね。

 

男性顧問が意外に重要な役だったのが、驚いた。てっきり、チョイ役かと。

 

 

 

 

学園モノだと、主要メンバーが若手ということで、演技力が甚だ不安だったけど、ヒロイン役の人(飯豊まりえ)が18歳くらい、ヒロインの親友役(清水富美加)が23歳くらいで、演技はちゃんとしていて良かった。4人の生徒役の人たちも、ちゃんと演技していたので、「脳内変換」しながら見続ける必要がなくて、ストレスなく見れた。

 

 

 

 

 

ちょっとネタバレ。

 

 

初めにストーリーを話し出すAが、文学サークルで始めた食べたお菓子に口が合わず吐いてしまったというのを聞いて、「あ、コレ、毒が入っているの知ってて、ヒロインがわざと食べさせたんだ」と思ったし、「善良なるヒロインは実はイジメの中心人物というパターンか」とも思ってた。

 

さらに、

 

ヒロインの妊娠を告げ口したのは、てっきりヒロインの親友が主導していると思いながら見ていたけど、違った。

 

 

(4人が語る)ヒロインが4人の生徒それぞれに被害を受けていると思わせたのは、ヒロインが4人を騙していて、自分を中心に4人がいがみ合うのを画策しているのか(最終的にはヒロインのために殺人を犯してもらう)と思ってたけど、違った。

 

だから、ヒロインが転落死したのは、ヒロインの親友が「美しいヒロイン」を守るために、「邪悪なヒロイン」を殺したのだーと推理していたのだけど、まったく外れていたさー。←みんなから愛されていて、ウソをつかず人を騙さず、慈悲を振りまいていると思われたままでいるために。悪いことを考えていると他の人に知られる前に死んでしまえば、思い出の中で美しいままでいられるから。

 

 

 

親友は、「世界の中心」であるヒロインに恋い焦がれていて、同化したいほど憧れていて、だから男性顧問と世界(=学園)の外で「平凡な女性」として生きていくと決心したヒロインを、「世界の中心」でなくなった、裏切られたと思った。

そして、自分がヒロインになって「世界の中心」を取り戻す、という話だった。

 

 

 

そういえば、相手にシンパシーを感じて、恋い焦がれて、意識的であれ無意識的であれ同化したくなるという話はよくあるけど、たいていは同性同士で、主従関係があって、最終的に下剋上状態になる展開が多いような。。。そして、だいたい悲劇的だよね。

 

 

 

同化したくなって、相手に同化してしまったら、本来の人格はどこに行ってしまうのだろうね。

そういえば、ヒロインの親友も、4人の生徒の話の中にほとんど登場しなかったし、どんな家庭環境でどういう性格なのかも不透明(むしろ空気のように透明だったというべきか)だったなー。

 

原作読んでないので、原作も読んでみたくなったな。

 

 

 

 

 

 

葛城事件。

2016年。

 

評価-6/10。

 

社会派度-☆☆☆☆

胸糞悪さ度-☆☆☆

同情度-☆☆☆

 

 

無差別殺傷事件を起こした次男に対して、死刑判決が出され、死刑反対派である女性が次男と結婚することで、この事件に関わることになる。女性は、次男と会話できる立場になり、また父親とも会話するようになる。なので、観客はこの女性を通して、現在の次男父親、そして父親の環境を知ることになる。

 

合間に、事件を起こすまでの家族の時間が挿入されるので、ちゃんと見ていないと、この場面は、現在なのか過去なのか分からない、ということになりかねない。ややこしいと言えばややこしかった。

 

父親は、「家族を大事にしたい」ナルシストとして描かれる。なので、自分の思い通りに動かないと暴力をふるったり人格攻撃をしたりするし、それに屈服して彼の思い通りに動いたら、その後すぐに笑顔で会話を続けようとする。

 

長男は、父親の思い通りの人間になることを了承して生きていて、子どもの時から成績が良い。そのため、父親に愛されている。

次男は、父親に支配されることに疲れ果てていて、いわゆる「引きこもり状態」になっていて、父親から疎まれている。

母親は、父親からの暴力から逃れられず卑屈になっていて思考能力も低下している。一度、父親から逃げて生活を始めるが、結局連れ戻される。

 

長男はリストラにあうが、それは父親が望む姿ではないと分かっているので、誰にも相談できずに自殺してしまう。

 

その後に、次男が駅で無差別殺傷事件を起こす、という流れ。

 

 

自分の理想の子どもになるように育てようとする女性は「教育ママ」として描かれることが多いけど、それの男性版という感じ。

 

どちらにしても「理想の家族」を欲しがっているけど、家族を「人格をもつ人間」として見ていない。

 

映画では終盤に家に住み始めた頃の「普通の状態」だった様子が回想として描かれるけど、それが悲劇性を高めている。というか、この回想がなければ「この父親、クソ過ぎる」で終わりそう。

 

次男は、家庭の中ではボソボソとしか話せなかったのが、刑務所では感情むき出しで叫ぶようになっている。それだけ、父親の抑圧の大きさが分かる。(ただ、演技的には舞台のようで、映画としてはチョット大げさだなとも思った。もうちょっと言葉が聞き取りやすかったら良かった。)

 

 

父親役の三浦友和さんの演技は、評判通り秀逸だった。ただただ胸くそ悪さを感じてて、「同情できない演技」で映画を支えることができるのは、そこに並外れた演技力があるからだと思った。(観ている時はヤなヤツだなとしか思わせない)

 

母親役の南果歩さんの演技もよかった。夫の身勝手さや暴力に怯えている「弱い妻」というのではなく、夫の狂気が伝染して「壊れた妻」を演じていた。

 

次男と結婚する女性を田中麗奈が演じていたけど、何考えているか分からないキャラを上手く演じていたと思う。セリフの量も多かったのに、感情を乗せずにやり切ったのはスゴイと思った。

 

 

終盤のシーンで、次男と結婚した女性に、父親が「次男の家族に慣れるのなら、自分の家族になってくれてもいいじゃないか」みたいなコト言ってレイプしようとするのだが、それが彼の全てをあらわしているなと思った。自分が渇望するものは力尽くで手に入れる、その時相手の気持ちを慮らない(というか、考えてもいない)。結局拒絶されてしまうのだが、その後に残された父親は、「自分の行いを反省している」のか、それとも「手に入れたいものも手に入れられなくなった自分に老いを感じている」のか。。。

 

 

ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ。

1990年。イギリス映画。

 

評価-10/10。

 

悲劇度ー☆☆☆

シェークスピア度ー☆☆☆☆☆

世にも奇妙な物語度ー☆☆☆☆

大好きだー‼度ー☆☆☆☆☆☆

 

私のドストライクな映画です。設定も、役者も、音楽も、衣装も、文字も。

 

ハムレット』を知っているという前提で作られているので、何も知らないままでは全く理解できない映画とも言えます。

 

ギルデンスターンとローゼンクランツは、ハムレットの友人です。ハムレットの叔父である王は、ハムレットうつ状態を見てどうにかしようと、ギルデンスターンとローゼンクランツを呼び寄せるわけです。

 

二人はハムレットの気晴らしをするというのが表向きの理由です。というのは、ハムレットの叔父クローディアスは、自分の兄でもありハムレットの父でもある先王を殺して王位を奪い、ハムレットの母である王妃も自分の妻にしてしまっています。ハムレットは、その事実を知っていて、自分を弾劾するような行動に出ないか心配なのです。

 

なので、王クローディアスは、ギルデンスターンとローゼンクランツをハムレットの話し相手にして、ハムレットの本当の目的を聞き出してもらおうと画策しています。

 

ハムレットは、もともと王になることに消極的ですが、王子として叔父の不正に何もしないままでいいか悩んでいます。兄王を殺して王位を手に入れている上に、(ハムレットたちの倫理では)兄の妻だった女性を自分の妻にするということは近親相姦に値することです。なので、「To be or not to be, that is the question」となるわけです。

 

シェークスピアの戯曲『ハムレット』の中では、ローゼンクランツとギルデンスターンは二人一緒に同じシーンに登場します。登場するときは、いつも二人一緒です。言っているセリフもどちらが言ってもいいような内容です。なので、本当に「どちらがどちらでもいい」端役です。

 

一応、映画ではローゼンクランツはゲイリー・オールドマンが、ギルデンスターンはティム・ロスが演じていますが、キャラとしての二人は自分がどちらなのか理解していないかもしれません。

 

ということで、映画へ。(好きなので、文章も長くなります。)

 

 

 

まず、二人が馬に乗って旅をしているシーンから始まります。

 

ふとしたことで、コインを落としてしまい、それに気が付いたローゼンクランツがそのコインを拾います。旅にも飽きているのか、コインを投げて裏表を出して遊びます。

 

そして、何回投げても表しか出ないことに気づきます。→ここで、「この世界」は通常の世界でないことを気づかされます。観客は、「彼らは本の中の住人であり、自分たちの世界と同質でないのだ。」と思うはずです。(ちなみに、彼ら二人は普通の世界に生きていると思っている。)

 

ギルデンスターンは、表ばかり出る原因を考察しますが、その中で「今、自然ではない力の中に自分たちは捕らえられている」(まさにその通り)という推論をしますが、ローゼンクランツが真面目に取り上げないので、うやむやに。

 

話の流れで、自分の一番古い記憶の話になります。王からの召集を伝える使者が思い出されます。ここで、彼らは、今王宮に向かう途中であることが分かります。さらに、使者に起こされた時に、彼らが生まれた、とも言えます。(なにせ、作品のキャラなので)

 

 

王宮に向かう途中に旅役者に出会います。怪しさ満点です。

ここで、ローゼンクランツが自己紹介をしますが、「僕の名前はギルデンスターン 彼はローゼンクランツ」となってしまいます。ギルデンスターンが怪訝な顔をして、ローゼンクランツが「彼の名前はギルデンスターン 僕はローゼンクランツ」と改めます。このやり取りは、以降にもたびたび出てきます。

 

旅役者たちは、何ができるのかと問われ、殺人や亡霊、戦闘や悲愴な恋人などハムレットを思わせるイメージを演じます。また、このときに台本とみられる紙が散逸しますが、紙が散逸するシーンも以降たびたび出てきます。

 

ローゼンクランツとギルデンスターンは、自分たちも舞台に参加できるのかと問うと、旅役者は、「ある者には芝居する場、他には客になる場。これはコインの裏表、または同じ面だ。」と。←映画の出だしのコイン投げの珍事とつながります。

 

このシーンでは、ローゼンクランツとギルデンスターン=芝居を見ている客(裏)であり、旅役者=芝居をしている役者(表)、ですが、

映画全体をみると、私たち観客=芝居を見ている客(裏)であり、

旅役者だけでなくローゼンクランツとギルデンスターン=芝居をしている役者・キャラ(表)、になるというわけです。

ローゼンクランツとギルデンスターンは、自分たちが(表)であり(裏)になることはない、ということに気が付いてないわけです。

 

旅役者とコインの賭けをしますが、1回目は表が出て旅役者(表が出ると分かっていたという感じ)の勝ち、2回目は何故か裏が出て不思議がる二人ですが、不思議だなと思っているうちに場面が王宮内に急転します。←舞台ってそういうものですよね。

 

急なことに戸惑う二人ですが、王が近づいてくるので、とりあえず頭を下げます。

 

王も二人がどちらか分からずに話している感じ。

ハムレットのことを探ってくれ、と頼みます。傍からは親心として。

 

二人も臣下として、王の命令に従うと約束するしかありません。

 

王とその連れが部屋を去っていくので、二人も部屋から出ようとしますが、出たところで、再び同じ部屋に戻ってきてしまいます。←舞台って、場面が決まっていて、それ以外の場所は与えられていないですよね。

 

再び部屋を出てみると、今度はきちんと出ることができます。進んだ先は、室内テニスコートみたいなところ。

遊び道具を用意する中で、ローゼンクランツが重たいものと軽いものが同時に落ちること(万有引力)に気が付き、ギルデンスターンにも見せようとしますがうまくいきません。←ハムレットは1600年ごろで、ニュートンが1642年生まれなので、登場人物が気が付くハズがない、というか気がついてはいけないのです。

物理法則に気が付きそうで気が付かないというシーンはたびたび出てきます。

 

何だかんだで、言葉遊びが始まります。

最終的にギルデンスターンは、自然にローゼンクランツを呼ぶことができますが、ローゼンクランツの方はうまくいかずに終わります。

 

ハムレットを見かけて、彼が変容したことに気が付く二人は、その原因を推理しようとします。現状の人間関係をおさらいすることしかできません。

 

 

ついにハムレットと対面することになります。ハムレットも二人がローゼンクラン・ギルデンスターンのどちらか判別できていません。(友人なのに)

 

ハムレットは狂気にとらわれたように振舞いながら、二人が自分に会いに来た王クローディアスのスパイかどうか探っています。二人は、ハムレットから何も引き出すことが出来ませんでした。

 

 

次に、旅の途中で会った旅役者が王宮に来ていることを知ります。ハムレットが熱心に劇を見ているのが分かります。ハムレットの要望で、旅役者はしばらく王宮に居続けることに。

 

旅役者と話すことで、ハムレットとオフィーリアの関係を二人は教えられる。

 

 

旅役者たちは、王宮の下男下女らに無言劇を見せることになるが、その内容が『ハムレット』そのもの。これから王宮で起きることを舞台にしている。ローゼンクランツとギルデンスターンに起きることも。←といっても、二人や下男下女らにとってはそれはまだ、「何かのお話」に過ぎないけど。

 

トーリー的には、オフィーリアはハムレットとの恋に悩んで入水自殺をするし、王クローディアスとハムレットは相討ちみたいになるし、王妃も巻き添えで死んでしまう。悲劇の伝統にのっとって、主要人物はみんな死んでしまう。

 

劇が終わったら、またハムレットたちのターンに。

 

ハムレットが「To be or not to be」と言うシーンがあるけど、それを声に出さずに口を動かすだけにしたのは、スゴイ演出だと思った。

 

 

ローゼンクランツが、降ってきた紙を飛行機にして放ると、ハムレットとオフィーリアがいるところを通って、王らがいる部屋を通って、自分の場所に戻ってくるというのも面白い。

 

 

ローゼンクランツは、戻ってきた紙飛行機をさらに工夫して、20世紀風の飛行機を作って飛ばそうとするけど、ギルデンスターンに壊されてしまう。

←ローゼンクランツは、記憶がないだけで、実は現代人なのか?

 

 

次に、旅役者たちが舞台練習をしているところに。ハムレットたちはハムレットたちで、話を進めている。舞台役者たちは、クローディアスが兄王を殺すところを舞台ストーリーとして練習している。

 

 

役者たちがクローディアスがしてきたことを舞台で演じているというところを見て、王クローディアスは挙動不審に。ハムレットとクローディアスの決裂は決定的なものに。

 

これだけあっても、ローゼンクランツとギルデンスターンは現状に気が付かず。←あくまで舞台はただの舞台だと思っているので。ハムレットの父をクローディアスが殺していることを知らない。

 

暗転。

 

二人は気が付くと船に乗っていた。

 

この映画は場面展開が急だけど、ローゼンクランツとギルデンスターン二人に自覚がないから。通常なら、場面展開があったら、移動してきたところを省略したことを観客も分かっているし登場人物も分かっているけど、これは二人は自分たちがストーリーの登場人物だということに自覚がないから省略に気が付いていない。だから、二人にとっても場面展開が突然起こってしまうのだ。

 

 

二人は話し合っているうちに、ハムレットをイギリスに連れていく途中であることを思い出す。王の書状も持っていて、そこにはハムレットがイギリスに着き次第ハムレットの首をはねろと書かれていた。

 

二人は、ハムレットへの友情と、臣下としての任務の間で悩む。ハムレットは王の書状をすり替える。船は海賊船に襲われ、ハムレットはその海賊船に乗って王宮へ戻る。

 

 

ローゼンクランツとギルデンスターンは、ハムレットのいないままイギリスへ行こうと決意。すり替えられた書状にはハムレットではなく二人の首を吊れと書かれていた。

 

 

ラストは、ローゼンクランツとギルデンスターンが最初に旅をしてきた道を、旅役者たちが引き返していくというシーンで終わり。

 

 

シェークスピアの「人生は舞台だ」精神を描いた映画でもあり、運命は決められているという古代ギリシア悲劇をシェークスピア作品を用いて再構成したような映画でもある。

 

 

映画の構成は入り組んでいて、ややこしいけど、それが楽しい。

好き。